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癇癪の力で発電できればいいのになと思った話
作成日2021/5/1
更新日

癇癪は悪いこと?
わたしの子どもに限らず、癇癪をおこしてしまう子どもは多い。わたしの子どもも例外ではなく、彼らとうまくとりあえたらと思うのだが、30台半ば・未だに全く人間ができていないわたしはしばし癇癪をおこす子どもと衝突を繰り返していた。
しかしそんな子どもが最近お絵描き中、自分が思い描いていた絵が書けず、いつもなら「これじゃない~~~~~~~」と泣き叫び紙をびりびりに破くようなシーンで「まぁいいや~、わざと下手な絵を描いたのよ~」などと鼻歌を歌いながら冷静に気持ちを切り替え、別の絵を描き出すことがあった。
「な、なんてすごい進歩だ…もはやこれは進化だ…」わたしはしばし感動していた。
ところが彼女が描いた絵を見た途端、思いもよらない気持ちが生じてきた。
冷静な気持ちで書いた絵はなんというか癇癪をおこしながらなんとか描いた絵より、なにか足りない、物足りないのだ。
癇癪をおこしながら、それでも必死でくらいつき、最終的にゾーン(親が話しかけても返事をしないくらいの集中力に突入しながら書いた絵とは熱量が圧倒的に違うのだ。
いや、なんというか癇癪をおこさなくなったらその方がいいに決まっているんだけど、でもなんだか「寂しい…?」思いもよらない感情がわたしを支配する。
理想と現実のはざまで
わたしは以前から子どもの癇癪が苦手だった。いや、癇癪をおこしている子どもが得意な人なんてあまりいないと思う。癇癪をおこしている最中の子どもは目は血走り、会話は通じないし、かなり怖い。癇癪をおこさない=スマート その方がいいに決まっていると思っていた。
ただ癇癪をおこしている子どもには、尋常ではないくらいの熱量があった、と思う。癇癪をおこすときというのは、自分の思った通りにならなかったときである。自分の理想と現実にずれが生じているので、あのようになるのだ。そこには必死に理想にくらいついていく熱量があった。癇癪の熱量で発電ができそうなくらいである。
彼女は確かに大人になった。理想から少し妥協することで自らの感情をコントロールしたのだ。
それはそれでいい。でも、たまには癇癪をおこしてでも理想を追い求めようとする姿があってもいいのではないか。しかも何といってもまだ子どもだし。
癇癪は子どもの特権だ、さぞ暴れるがいい そういう考えがあってもいいのだ。
こんなことをいうと、「今落ち着いたからそんなこと言えるんでしょ」と昔の自分に怒られそうであるが、 癇癪=悪 だと決めつけるのもなんだか違うのではないかというのも、今の自分の結論である。
癇癪はその子のエネルギーが爆発している。芸術は爆発だ! 子どもの癇癪は爆発だ!
将来癇癪のエネルギーでその日の電気を少しでも賄えることなどできたのなら、きっと子どもの癇癪に感謝する日が来るに違いない。